2015年3月29日 (日)

アンリ・ファーブル著「完訳 ファーブル昆虫記〈1〉」を読んで

《老齢に弱り、精力はなくなり、視力はおとろえ、動くこともほとんど出来ず、私は一切の研究の手段をうばわれてしまったので、たとえ命がのびたとしても、将来本書に何か付け加えられるとは思えない》

この本は彼の昆虫記(原題は昆虫学の思い出)決定版の第一巻だが、晩年のファーブルはその序文をこんな風に始めている。

ファーブルは1823年にフランス南部の片田舎に貧い農家の子として生まれ、1915年に92歳で亡くなったが、彼は自身の昆虫学の集大成であるこの本を1879年から1910年にかけて、つまり56歳の時から31年をかけ、合わせて十巻を刊行した。

ファーブルはこの決定版の序文で、自分は年をとってもう改訂できないだろうからこれを決定稿にしたいと述べ、その上でチャールズ・ダーウィンの唱えた進化論について、わざわざ以下の様な強い否定的な意見を記した。

《知性を持ち出して昆虫の行う多くの行為を説明できると信じた進化論は、その主張を少しも証明したとは思えない。本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されているのだ。》

昆虫の天才的な驚くべき諸行動を規制しているのが「本能」であって、それがあるときは昆虫をあたかも高い知性をもつように見せ、あるときはまったく融通がきかない愚か者のように見せる、その本能の実態を観察と、考察と、実験とを積み重ねて明らかにすることが、ファーブルが生涯をかけた課題であったと思う。

それでも、彼の進化論に対する評価はあんまりじゃないか、という気がする。進化論が昆虫の行動を知性で説明しているという彼の非難は解せないし、この第一巻の狩蜂の行動の記録からは、狩蜂の種の分化とともに本能も分化したのではと思われる事例や、同じ種のなかで本能の分化が今まさに生じているとも推測される例をファーブルは見出し、記録している。不思議なことに、ファーブルの研究の成果は、昆虫の行動の進化に対しても多くの示唆を含んでいるようなのだ。彼自身がそのことにまったく無自覚だったのかどうかは分からないが、彼には「進化論」のなかに何か許せないものを感じていたらしい。

ファーブルに対してそんな疑問を持ちながらも、彼の偉業を振り返ってみたい。この第一巻からは、彼が研究者として学会にデビューするきっかけとなった、狩人蜂の一種、コブツチスガリの章を簡単に振り返ってみる。

31歳になったファーブルはアヴィニョンの高等学校(リセ)に教職を得ていたが、博物学の先輩である、レオン・デュフールのコブツチスガリの狩りに関する論文に対して異論を発表した。

フランスのツチスガリ類は全て甲虫類(本書では鞘翅類と記載)のなかでも、ゾウムシ類かタマムシ類を狩って、巣穴に運び込み卵を産みつけて幼虫の餌にしている。レオン・デュフールはこの狩蜂の獲物を手に入れて観察し、この獲物は死んだように動かないのに何日たっても腐敗しないことを見いだし、ツチスガリがゾウムシやタマムシに針で何か未知の防腐液を注射したと推論した。

ファーブルはこの防腐液の注射という推論に異議を唱える。ツチスガリの獲物は確かに死んだように動かないが、何日も関節がしなやかに動き、死んで防腐剤を処置された昆虫標本とはまるで異なる。そもそも獲物が死んでいる、というのが間違いなのではないか。

デュフールは、「なぜ死んだ獲物は腐らないのか?」という問題を自ら出題して、その答えとして「防腐剤」を見いだしたが、ファーブルはその「防腐剤」という回答に疑問を感じ、問題を「なぜ腐らないのか?」ではなくて、「死んでいないのに、なぜ死んだように動かないのか?」と問い直した。獲物の虫は死んでいなのだから、回答が防腐剤であるはずはない!

これも「コペルニクス的転換」の例になるかな?

問いが違ってくるので、答えもまるで違ったものになる。それは是非本書で皆さんが自ら確かめてください。

僕は、ファーブルの偉大さは、先人が見いだしたもっともらしい回答にも疑問を感じ、同じ事実から、彼独自のまったく新しい「問い」を見いだす能力にあると思っている。

そう、ファーブルは僕の子供の頃からのあこがれの人なのだ。僕は彼のこの類まれな能力を見せ付けられると、進化論に理解がなかったことなど、ほとんど許してしまっているのだ。

「ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯」を読んで

2010年に梨木さんの新訳が発刊されてから、既に沢山の素敵な書評がありますが、今年の1月にこの文庫版が出て、僕の奥さんの目に止まり、幸運にも僕も手にとって読むことができたという次第・・・

1940年のある夏の日に、著者のクレア・キップスは、巣から落ちたスズメの雛を拾う。彼(スズメ)は片方の羽根と足に先天的な異常があり、人の世話がなければ生きていけない小鳥だった。彼はクラレンスという名前をもらい、12年の生涯を著者のクレアとともに過ごした。

オスのスズメと人間の女性との12年間の生活の記録がこの本なのであるが、彼、クラレンスはまだ目が開く前から人の手で育てられたため、野生のスズメとはまるで異なった成長を遂げる。そして、そのことが却ってスズメのもつ本来の潜在能力を我々に示すことになった。

自然界でのスズメは決してウグイスやヒバリのような複雑な囀りはしないが、クラレンスはクレアの弾くピアノの音階に鋭く反応し、トリルを含む複雑な旋律を独自に習得した。しかも彼はそれを毎日一人で練習し完成度を高めていった。

クレアが彼に弾いて聴かせたのはどんな曲だったのだろうか。クラレンスはトリルや最高音部で急奏される曲に反応したらしいが・・・たぶんベートーベンやシューマンではなくて、モーツァルトやバッハのピアノ曲だったのではないかなあ。

本には数小節の楽譜が載っているが、クラレンスの歌は4度と5度の間を行ったり来たりする、結構複雑な音形だ。彼は音階を理解できたかもしれない。人間は言葉を鳥の歌から学んだという説があるらしい。逆に考えると、クラレンスはわずかながら言葉を話せた、とは言えないか?

この本で最も感動的なのは、11歳で脳卒中を患い、足が不自由になってしまったクラレンスが、それまでの飛び跳ねる移動方法を捨てて、片足を引きずりながらも歩いて移動する方法を自分で編み出すところだ。彼は決して「生」を諦めないのだ。

この物語は本来スズメとはどういう生き物なのかを教えてくれると同時に、人間とはどういう生き物なのかについても考えさせられる。

これをスズメと人間の種の違いを超えた、愛の物語だと考えることもできるだろう。クレアとクラレンスはお互いを必要と認めていたからこそ、戦時下の爆撃や機銃掃射の中をともに生き延びえたのだろうから。

「下北沢ものがたり」を読んで

本書は「下北沢」にゆかりのある著名人へのインタビュー集。話題の中心は現在進行中の中心街の再開発と、かつての下北沢の街のはなし。

ところで、下北沢という地名は存在せず、小田急線・井の頭線の「下北沢駅」を中心とした繁華街と同心円状に広がる周囲の住宅街からなる、かなり便宜的な概念です。

本の21ページに地図が載っていますが、下北沢駅を中心として、井の頭線の池ノ上駅、新代田駅、小田急線の東北沢駅、世田谷代田駅を外周とする円の内側の地域が一般的な「下北沢」の範囲でしょう。

僕はかつて東北沢駅と池ノ上駅の中間に住んでいたので、上の定義では下北沢の外周部にいたことになります。東北沢や池ノ上方面から見ると下北沢の中心街はすり鉢の底のような位置にあって、行くには必ず坂を下らねばなりませんでした。街全体が円形劇場のような形をしていて、観客席にあたる小高い住宅地から坂の下の中心街を、舞台を見下ろすような感じで見ることになります。

これまでこのことを指摘した人がいたかどうか知りませんが、この地形的な構造が下北沢という地域の緩やかな一体感を醸し出している気がします。

 

作家のよしもとばななさんが面白いことを言っています。彼女は下北沢に住んで、町内会や八幡神社のお祭りにも参加するが、そのお祭りで鉢巻姿で神社への募金を募る老人たちとはお祭り以外では街中で全く出あわない、それが不思議でならないと。それに対してインタビュアーが、下北沢にいる人間は、いろんなレイアー(階層)に分かれ、日常は各自のレイアーの中で生きているからだろうとコメントしています。

 

僕は1988年に結婚してから1999年に横浜に引っ越すまでの11年間を下北沢で暮らしましたが、この本で紹介されている、バー、喫茶店、レコード店、ライブハウス、小劇場にはほとんど行ったことがなく、この本で下北沢を語っている方々とはあまり接点がありません。下北沢に住んで横浜に通勤する僕のようなサラリーマンは、この本に登場する人々とはまた別のレイアーに属するようです。

 

それでも土日には夫婦で坂をおりて下北沢の商店街で日用品を買い、外食をしました。日常は外周の観客席(住宅地)で暮らし、休日にだけ舞台の上(中心街)にちょっと出てみるようなものです。ディープな下北沢には無縁でした。

 

ただ一度だけ、スズナリで観劇したことがあります。小さな階段教室のような造りで、舞台と客席の距離が近かったのを覚えています。この本でも、俳優の榎本明さんが、自分がこれまで舞台に立ったなかで一番いい劇場だ、と語っています。舞台と観客席が近いので、役者と観客の間に一種の緊張感とともに一体感が生まれるのです。本多劇場やスズナリのオーナーである本多一夫さんによれば、スズナリはもともと本多劇場に出演する役者さんたちの練習場として計画したのだとか。この劇場はお勧めです。

 

下北沢の町のつくりは、スズナリのような小劇場のそれに似ている気がします。周辺の住宅地(客席)と中心の商業地区(舞台)の間にある、ひそかな親密さ・・・

 

ところで今では、下北沢には県外からも多くの若者たちが訪れてくるらしいです。また、16年前には見かけなかったバールズバーやキャバクラが増えたとか。街はどんどん変っていきますが、実は僕はもう何年も下北沢の中心街は歩いていません。横浜に住んでしまえば、行く必要もないので・・・

 

とはいえ、下北沢とは一生縁が切れないでしょう。僕の奥さんは下北沢そだちですし、僕にとっても第二の故郷のような街です。それで、下北沢がタイトルに入った本はつい手に取ってしまいます。

 

(余談)

下北沢は俳優さんや作家さんが多く住んでいる(いた)町としても有名になりました。義理の母は本書にでてきた榎本さんに街中でよく出くわすらしいです。僕の住んでいたところの近所のマンションには、かつて作家の伊集院静や、若い頃のキムタクが住んでいました。見かけたことはないけど。

「縄文人はどこへいったか?北の縄文連続講座・記録集2」を読んで

本書は「縄文人はどこからきたか?」の続編です。

巻頭の特別講義では、骨から見た縄文人と弥生人の容貌の違いについて述べられています。頭部の骸骨の形は縄文人と弥生人でははっきりと異なります。その骨の形状などから推測される両者の容貌の特徴をまとめると・・・

まず縄文人の顔ですが、顔の幅が広く全体に四角で、眉が濃く、まぶたは二重で目が大きく、鼻は高く口元は締まっていて唇がやや厚く、全体に立体的な顔立をしています。その顔は東南アジアの人々と共通の特徴を示しており、縄文人が南周りで日本列島にやってきたことを暗示しています。

一方、弥生人はというと、顔は面長で全体に平たく、眉は薄くてまぶたは一重、鼻は低く、顎が発達していて口が大きく、平安貴族の顔そのままのような印象です。彼らはシベリアで寒地適応した東北アジア人の特徴を示しています。寒地適応の結果、体毛は薄く、唇も薄く、耳たぶも小さかったでしょう。

また縄文人は手足が長く狩猟に適した体型をしていた一方、弥生人は寒地適応により手足は短い特徴がありました。

紀元前3000年頃、北九州に東北アジア系の人々(後の弥生人)が渡来し、稲作を広めながら日本列島を東へと進みました。初めは縄文人とは別の集落をつくって住み分けていましたが次第に混血して、紀元300年頃(古墳時代)には関東地方にまで定住していたと考えられています。

弥生人が稲を携えて渡来した頃の縄文人の人口は全国で10万人(超過疎状態!)ですから、弥生人は縄文人の領域を犯さずに居住地を広げていけたと思われます。

ところで、現在の日本人を容貌の特徴から縄文系と弥生系に分けると、縄文系が3割、弥生系(=東北アジア系)が7割で、平均的な日本人は中国や朝鮮の人々と同じ東北アジア系の特徴を多くもっています。

ここでごく個人的なことを書かせて下さい。実は、僕自身は上に書いた縄文人の特徴がほぼ100%容貌に表れています。普通の日本人は縄文系といっても、どちらかと言えば縄文人の特徴が勝っているということですが、縄文人の特徴が僕くらい揃ってしまうと、周囲からちょっと浮いてしまいます(^^;。そんな訳で弥生時代以降の縄文人の運命には他人事でない関心があるんです。

ところで、本書の中心的な話題は北海道の縄文人がアイヌ人になっていくお話で、北方から北海道へやってきたオホーツク人の役割が大きかったことが示唆されます。アイヌ文化は13世紀、東北北部の奥州藤原氏が鎌倉幕府に倒された頃に成立しますが、その文化にはオホーツク人の影響が大きかったように思えます。

オホーツク人とは今日でもまだ謎の多い北方狩猟民族で、紀元前にはサハリンから北海道北東部、千島列島に広く居住し、容貌も生活スタイルも縄文人とは異なる人々でしたが、その文化は多数派であったはずの縄文人の子孫(アイヌ)の文化に引き継がれていった印象があるのです。

アイヌのクマ送りの祭りや離頭式の銛などの狩猟文化はオホーツク人の影響が推測されていますが、僕が最も注目するのはオホーツク人が消滅しアイヌ文化が成立すると伴に、それまで北海道内に留まっていた縄文人の子孫たちが、本州、サハリンや千島列島の北端まで進出していくことです。自給自足の狩猟採集民であった縄文人が、本州では稲作を行う弥生人に同化していくのに対し、北海道の縄文人の子孫たちは航海者で交易に携わったオホーツク人の後を埋めるように、生活のスタイルを一変させていきます。一般にはまだ広くは認識されていないのですが、アイヌ文化とは既に自給自足的な狩猟文化ではなく、狩猟や交易により得た品々(例えばワシの羽や干した鮭)を大量に本州に輸出し、逆に本州から米や鉄製品を輸入することで成り立っていたのです。旭川周辺では鮭を多量に獲るために居住地域まですっかり変ってしまったのでした。

この変化はたぶん、本州北部まで鎌倉政権が進出して大きな市場が開けたことと、縄文人の子孫がオホーツク人の交易者としての生活スタイルを取り入れた結果ではないでしょうか。

一万年以上続いた縄文文化の担い手であった縄文人が、大陸からの移住者に同化しながらも、13世紀以降、日本人とアイヌ人という各々異なる生き方を選んで今に至ったのですが、どちらも日本文化の根底にある縄文の文化を今日に繋いでいると僕は感じているのです。それが日本文化の他にない個性であるかもしれません。

 

「縄文人はどこからきたか? 北の縄文連続講座・記録集」を読んで

本書は「北の縄文連続講座・記録集」の副題が示すように、北海道での縄文文化からアイヌ文化への移行を話題の中心に据えつつ、日本列島の新石器時代に相当する縄文文化とそれを担った縄文人がどこから来て、その後どうなったのかを、自然人類学と考古学の研究者たちが最新の成果をもとに一般の人に解るように解説しようと言う、意欲的な啓蒙書です。

日本列島にホモ・サピエンス(新人)が確認できたのが4万年前で、この後1万5千年前に縄文文化(新石器時代)が始まり、3千年まえに弥生文化に移行するのですが、この縄文文化の担い手が本書でいう縄文人です。

縄文文化はかつて、南は沖縄の島々から北は北海道全域まで、日本列島の隅々に行き渡り、1万年以上も連続した文化圏として存在しました。そして、3千年前に大陸から来た渡来系弥生人によりとって替わられたかのように見えるのですが、ミトコンドリアDNAの解析によれば、日本人のDNAには縄文人のそれが色濃く残っていることが分かってきました。日本人が縄文人の血を引いていることは間違いなく、アイヌの人々が縄文人の子孫であることも確かで、つまり現代の日本人とアイヌの人々はどちらも縄文人の末裔であることが分かるのです。

(以下、ミトコンドリアDNAについて簡単に説明しますが、ご存じの方は読み飛ばして下さい。)
人間を含め、動物の細胞の核には染色体(DNA)があり、これに遺伝情報が書き込まれているのですが、通常の細胞の染色体は母親由来と父親由来の2本の染色体のペアで出来ています。生殖細胞ができる時に、この2本の染色体のペアが適度に入り混じりあってから、1本ずつに分かれ、父親から精子が、母親から卵子ができます。ですから子供は両親から1本ずつの染色体をもらっているので、父親と母親の両方の遺伝情報をもつ訳です。

ところが、細胞の中にミトコンドリアというものがあって、これは何故か独自のDNAをもっており、さらに不思議なことにこのミトコンドリアDNAは、母親から子供へそのままの形で引き継がれます。ですから私のミトコンドリアDNAは私の母と同じだし、母の母(母方の祖母)とも、さらにその母方の祖母ともまったく同じなわけです。ただし何千年も経てば、DNAの一部が変異することがあるので、二人の人間のミトコンドリアDNAがどの程度違っているかを調べると、二人のご先祖が何千年前に遡れば、同じ一人の母親に行きつくかが推測できます。

この原理を用いて、現代の色んな国の人、53名のミトコンドリアDNAを比較すると、日本人は南米人やイヌイット(エスキモー)に近く、韓国人や中国人からはやや遠いことが分かりました。また韓国人と中国人は、日本人よりヨーロッパ人に近いとこも分かりました。

このミトコンドリアDNAからの結果は、人類の進化の歴史のある仮説と一致しています。

人類は今から20万年前に東アフリカで誕生し、8-7万年ほど前にアフリカを出て世界中に広がって行きましたが、アジア人には実は2種類のルーツがある、というのがその仮説です。第一のルーツはアフリカを出た後、南回りにユーラシア大陸を東進した人々です。この人たちは多くのアジア人のご先祖になります。

 

もう一つのルーツはアフリカを出た後一旦北上し、ヨーロッパ人と分かれてからシベリアに達し、そこで寒地に適応した体型になった後で、中国大陸を南下しながら稲作を習得し、東南アジアや朝鮮半島、日本へ広がった人たち(東北アジア系)です。

日本で弥生文化を広めた渡来系弥生人とは、この東北アジア系の人たちで、寒地に適応したため、顔は平たく、耳たぶが小さく、手足が短く、一重まぶたであったと考えられています。今の平均的日本人に近い体型だったようです。遺伝的には日本人は東北アジア系の血が濃そうです。

しかし、ミトコンドリアDNAの解析は、日本人のルーツ、ひいては縄文人のルーツが南廻りルートにあるという推測を支持しています。

ところが、話はそう簡単ではありません。日本人のミトコンドリアDNAには日本人に特徴的な遺伝子のタイプ(ハプログループ)があり、それはM7aとN9bですが、M7aをもつ人は沖縄と九州に多く、関東、東北と北に行くほど少なく、北海道のアイヌでまた多くなることが分かっています。また関東の縄文人もM7aをもっていました。これは、渡来系弥生人が九州から関東へ広がり、縄文人の遺伝子は沖縄と北海道に多く残ったと解釈できますが、N9bの分布はそれとはちょっと違っています。

N9bは、沖縄、東北、アイヌで多く、九州ではほとんど見られません。関東の縄文人もN9bがありません。なお、渡来系弥生人はM7aもN9bももっていません。

(縄文人や弥生人のミトコンドリアDNAは残された骨や歯から調べられます)

つまりM7aとN9bは沖縄、北海道で多い点は共通ですが、九州から東北までの分布はまったく逆の形をしています。M7aは西高東低、N9bはその逆です。

この点について何の結論も書いてはありませんが、南廻りから日本列島にきた縄文人が渡来系弥生人と混血して現代の日本人になったという単純な図式ではないのかも知れませんね。もしかすると、縄文人が既に単一のルーツではないのかもしれません。

それでも、縄文人は沖縄から北海道まで共通の文化と、たぶん共通の言語を持っていたでしょう(ただし今の日本語とは異なり、アイヌ語に近かったかも)。本書のなかで、縄文文化は1万年以上続いたのに、なぜ沖縄から北海道の範囲に留まり続けたのか、という問いかけがあります。縄文人の末裔であるアイヌの人たちは、北海道からサハリンや千島列島まで進出した航海者でもありました。アイヌは狩猟採集民であると同時に、実は交易をする人々でもありましたが、それが答えかどうか分かりません・・・

ところで、このM7aやN9bは日本人以外からはほとんど見つからないとか。手掛かりはまた消えてしまい、日本人のルーツを探す旅はまだまだ続きそうです。

続編の「縄文人はどこへいったか?」については後日・・・

 

イサク・ディーネセン「バベットの晩餐会」を読んで

1987年に米国のアカデミー賞を受けたデンマーク映画「バベットの晩餐会」の原作です。作者は女性で、本名はカレン・ディーネセンですが、英語で作品を発表する際には男性名のイサク・ディーネセンを、デンマーク語で発表する際には女性名のカレン・ブリクセンを名乗ったとか。ブリクセンは元夫のスエーデン貴族の姓でした。

映画「バベットの晩餐会」は小説にほぼ忠実にドラマが進行していきますが、バベットの人物描写については若干の省略があります。

物語は1871年のある嵐の晩に、ノルウェーの寒村に住む、今は亡き高名なルター派の牧師の二人の美しい未婚の姉妹の下に、一人の女料理人がパリから逃れてくるところから始まります。

彼女、つまりバベットは、パリの高名な歌手パパンの紹介状を持って訪れてきたのですが、パパンは以前、彼がこの村を偶然訪れた際に、姉妹の妹の方のフィリッパに一目ぼれして求愛したものの、動揺したフィリッパに拒絶されてしまったのです。パパンはフィリッパに、すでに幸福な結婚生活をされているのだろう、と断りながらも、バベットを助けてくれるよう姉妹に懇願します。バベットはパリ・コミューン樹立後の市街戦で夫と息子を失い、パリから亡命せざるを得ないのだと。

そして十数年が経ち、バベットは姉妹宅の有能な家政婦として、村の生活にもすっかり溶け込んでいたのですが、そんなある日、バベットにパリから、バベットの友人(パパン?)がバベットのために買い続けていた宝くじが当選したことを知らせる手紙が届きます。

この賞金の一万フラン(約1千万円)を使って、その年の12月に予定されていた亡き牧師の生誕百年のお祝いのディナーを作りたいと、バベットは姉妹に願い出ます。こうして、タイトルにもなった、フレンチのフルコースのバベットの晩餐会が始まります。

晩餐会には信者達の他に、ゲストとしてレーベンイェルム将軍がその叔母とともに招かれます。将軍は各国の宮廷にも出入りし、若い頃パリに駐在したこともあると。

実は、将軍は若い頃、放蕩が過ぎて、姉妹の住む村の近くの叔母の館に蟄居させられた過去があったのですが、その時、姉の方のマチーヌと恋に落ちます。しかし、軍人としての将来の栄達を望んでいた彼は、結局マチーヌと別れて、都で貴族の妻を娶ったのでした。

晩餐会への招待を受けた時、将軍は自分の若い頃の選択が正しかったのかどうか、疑問を感じて煩悶します。

この後の場面は、是非小説と映画で堪能して頂きたいのですが、この後の展開で、バベットが実はパリ・コミューン以前にはパリの最高級レストランの伝説的な女性のシェフであったことが明かされます。その料理を再現するために、彼女は12人分の料理に一万フランを使い切るのです。

印象的な場面がいくつもありますが、二つだけ紹介します。

一つはディナーでのレーベンイェルム将軍のスピーチです。彼は姉妹らを前にこんなスピーチをします。

「人は人生において選択せねばばらない時に、失敗をするのではいかと怖れ、選択をしたあとでは、その選択が正しくなかったのではと怖れます。しかし、いずれは神の恵みは果てしないということを悟るのです。神の恵みには条件などありません。神は我々に、我々が選んだものを与えるのと同時に、我々が選ばなかったものをも有り余るほどに与えて下さるのですから・・・」

このスピーチは信者達には意味不明だったようですが、マチーヌには確かに伝わりました。

もう一つは、晩餐会が終わり、客が帰ったあとで、バベットがフィリッパにいう台詞です。

バベットが一万フランを晩餐会のために使い切ったといい、驚いたフィリッパが、私たちのためにそんな大金を使うなんて、というと・・・

「みなさんのためですって!違います。私のためだったのです。私は優れた芸術家なのです。」

そしてパリにはもうかつて彼女の料理を堪能した貴族や将軍達はだれもいない、そんなパリに帰る理由がないと。

フィリッパが、その貴族や将軍らがバベットの夫や息子を殺させたのではないか、と指摘すると、バベットは、確かに彼らは無慈悲で残酷な人達ではあったが、彼女自身の芸術性を証明するために莫大な費用をかけて育てられた人たちで、いわば彼らはバベットのためにいたのだと。

この台詞は実は映画では省略されています。僕はこの台詞に、ヨーロッパ貴族の価値観が表れているようで、好きなところです(共感とは違いますが)。

最後になりますが、この物語はバベットという異能の旅人が、外部から閉じた共同体の中に突然入ってきて、村人らに奇跡を与えるという、神話でいう貴種漂流譚の一種なのでしょう。映画では省略されていますが、小説でのバベットは肌の色があさ黒い黒人を連想させる人物として描かれています。バベットは現代の物語のトリックスターの一典型なのです。

2015年1月12日 (月)

タブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」を読んで

須賀敦子さんが好きだったタブッキの小説、というかちょっと変った短編集。

アントニオ・タブッキは、イタリアはピサ(古い海洋都市)の生まれ。この小説はポルトガルの西方、大西洋の真ん中に点在するソアーレス諸島での、クジラと捕鯨と女性をモチーフにした物語です。

これは小説というより、短編を連ねたオムニバスの映画に似ています。実際、これをもとに映画がつくられたらしい。

以下、最初の部分を映画風に紹介すると・・・

冒頭は大航海時代の旅人が故国の友人に宛てた手紙のナレーション。画面は朝の薄い靄のなかから、ソアーレス諸島の島々が厳かに現れるシーン。そこの住民はみな美しく、神秘的な目の表情をしており、多神教の神々を崇めている。

シーンは一転して、紺碧の海の上を進む小型汽船のデッキに、中年男性の作家と若いブロンドの女性。女はさきほど空港についたばかりで、作家の方は島に長く逗留している。作家は、海を眺めながら、今書いている劇のテーマについて語っている。ある男がある女をすてる話で、その女の方から物事を見る、女が主人公の物語で、男はちっぽけなエゴイストさ。これまでフィクションばかり書いてきたが、今回は人生の現実と対峙する。書くのは裸で生の現実だけ・・・それが時代の好みだ。

それを聴いた若い女が作家に、心配そうにそっと尋ねる。それは、回想なの?
スキャンダルになるかしら? ・・・それから若い女はゆっくりと言う。
自分はその作家の別れた恋人としょっちゅう会って、長い時間をともに過ごしたと。

「あのひとは、不運だけど、こころの寛いひとなのよ。あなたのこと、ずいぶん好きだったと思うの」

船が岸壁に横づけになると、デッキには大勢の旅客が殺到し、作家はタラップへ押し出された。埠頭で待っているよ、と下船しながら作家は叫ぶ。若い女は押し寄せる旅客をわきに避けて、手すりのロープに身をゆだねて、海を見ていた。

この冒頭のエピソードは小説の終わりにある中編「ピム港の女」と対をなしています。それは、作家がとある島のバーで出会った、ギターの弾き語りをする鯨漁師だった老人から聞いた話で、老人が若い頃出会い愛した年上の女と、彼とその女の恋人との話で・・・

冒頭のシーンとこの老人の話の間に、島の難破船の廃材からできた家屋の並ぶ村の話、モーツァルトのピアノ協奏曲を聴きながら出港する恋人たちが載ったヨットの話、ソアーレス諸島出身のある詩人の生涯、クジラの生態と捕鯨の話、などが挿入されていきます。

最後の著者の「あとがき」は、あるマッコウクジラのつぶやきです。クジラは人間についてこんな風につぶやきます。

《どうしていつも、あんなにせわしないのだろう、長い手足をばたばたさせて。・・・
 彼らの愛の行為は気むずかしくて、あわただしく終わる。細長い彼らの体形のおかげで、結合するときの壮大な困難に遭遇することもなく、遂行するときも、かがやかしい、やさしさに満ちた努力を必要とはしない。・・・やっぱり、彼らは悲しいにちがいない。》

クジラから見ると、僕らはあまりに華奢で荘厳さに欠け、悲しげにみえます。

因みに、この「あとがき」は本文中の、19世紀フランスの偉大な著作家ジュール・ミシュレの「海」からの、クジラの愛の行為に関する、以下の引用文に対比させられています。

《この婚姻を感動的で荘厳なものにするのは、そのために確固とした意思が必要とされるからだ。・・・捕鯨に関わる人たちは、この特異なスペクタクルをときに見るという。まるでノートルダム大聖堂の一対の塔のように、恋するものたちは、腕があまりに短いことに鳴き声をあげながら、抱き合おうとしてもだえる。そして、重い目方すべてをかけて落下する・・・(白)クマも人間も、彼らの吐息にどぎもを抜かれて逃げ去った(p.90)》

ところで、不意に懐かしいジュール・ミシュレの名前に出会い、この「海」も読んでみたいけれど、インターネットで探してもらえるかな、と妻にいうと、ジュール・ベルヌの「海底二万海里」じゃないよね?と切り返えされてしまいました。

それを聞いて、そうか!、久しぶりにノーティラス号とネモ船長の物語を読むのもよいかもしない、と思いましたとさ・・・

梨木香歩「からくりからくさ」を読んで

梨木さんの長編を読むのは初めてですが、意外なほどするすると読めてしまいました。
が、作者が張り巡らした、若い三人の女性(蓉子、紀久、与希子)の各々の親族同士の複雑な関係と、蓉子と紀久の各々の祖母が持っていた二体の市松人形の因縁を読み説くのは結構疲れます。一種のサスペンスとしても読めるかも・・・

それはさて置き、この物語はいわくのある市松人形「りかさん」の所有者である蓉子の祖母が亡くなり、祖母の古い家で蓉子と女子学生の紀久、与希子とそれに米国人のマーガレットの四名の若い女性たちの共同生活の中で起きる、「りかさん」をめぐる神話的な物語です。

四人のなかで僕が最も印象的だったのは、内向的な紀久でした。彼女は虫が、特に大きな蛾が嫌いで、それなのに蚕からとる絹糸で紬を織るのを天職にしようとしている女性です。彼女のなかには初めから相矛盾する二つの側面が共存しています。持ち主の蓉子以外では、彼女が最も「りかさん」に感応するのはそのためでしょう。

紀久はとても不思議な女性で、恋人だと思っていた先輩の神埼が、マーガレットを妊娠させていたと知ったとき、強い情念に囚われましたが、それが神埼やマーガレットに対する直接的な怒りや恨みにはならないようなのです。自分のなかに怨念と祝福という相反する気持ちが同時に共存しうる、と彼女は言いました。その代わり、蓉子に、彼女の嫌う化学染料で真っ黒な糸を染めるように断固として要求するのです。その真っ黒い糸を織り込んだ紬は、彼女の怨念と祝福の心を同時に表現することになるでしょう。

この小説のタイトルにもなっているカラクサ文様は、どこまでも連続することがその本質であると言われ、本来混じりあえない二つの世界、たとえば天と地、現世と冥界、赤い糸と黒い糸、西洋と東洋とを繋ぎ、一瞬その境界線をあやふやにして世界の古い秩序を揺るがします。紀久の心の奥にある相反する二つの心を通じ合わせ、彼女の内面の危機を救うのもカラクサ文様だったかもしれません。

またカラクサ文様は、この物語のなかでは、ツタ、蜘蛛の糸、蛇、あるいはその化身である竜やドラゴンのメタファーでもあります。最後の場面で、人形の「りかさん」は蜘蛛の糸のようなディスプレイの中央に鎮座させられます。蛇の化身であるメドーサは蜘蛛のメタファーでもありますから、「りかさん」=蜘蛛=メドーサとも考えられますが、メドーサはギリシア神話の機織り娘のアラクネーと同一視されることがあるとかで、「りかさん」=蜘蛛=機織り娘と考えるのが自然かなあ。最後には、「りかさん」は炎に包まれ竜になって天に登って行くのですが。

さて、物語のなかで蓉子と紀久の各々の祖母が持っていた二体の市松人形の因縁が次第に明らかになり、またその人形の作者が、与希子と紀久の共通のご先祖であることが分かるのですが、この二体の人形がともに持っていた、斧(よき)、琴(こと)、菊(きく)の文様をあしらった着物は、「よきこときく=与希子と紀久」という語呂合わせみたいですね。二人の不思議な名前の由来は、梨木さんの言葉遊びだったのですね。

ところで、「りかさん」とは結局何者なのでしょう?蜘蛛の糸に乗り、最後に竜の姿になり、天と地を結ぶもの、たとえば光かも知れませんね。でも、僕は「りかさん」を敢えてトリックスターだと呼びたいです。「りかさん」の導きによって、それまで交わることのなかった与希子と紀久の精神世界は一瞬導通し、彼女らの運命はそれまでと違ったものになるでしょう。それに、真面目な「りかさん」は悪ふざけはしませんが、ちょっとしたいたずらはします。それは物語の最後のページに書かれています。

この物語には後日談があります(ミケルの庭)。「からくりからくさ」の物語の一年後、母親のマーガレットは中国に留学し、1歳になるミケルは蓉子と与希子と紀久が育てています。紀久の心の中にはミケルに対する愛憎の相反する二つの心があり、それが遠因でミケルは高熱を発する病に侵され、一時意識不明になりますが、紀久はミケルの意識が戻る直前に、ミケルを自分の後継者にしようと決意します。

「もし、ミケルが戻ってくれたら、私はいつか、私の知り得た全てのことをミケルに伝えよう。結婚もするまい。子供もつくるまい。」

僕は、20年後の紀久とミケルの物語を読んでみたいと強く思いました。

レヴィ=ストロース「サンタクロースの秘密」を読んで

本書にはレヴィ=ストロースの論文「火あぶりにされたサンタクロース」と、その解説として訳者の中沢新一が書いた「幸福の贈与」が収められている。

「火あぶりにされたサンタクロース」はサルトルの主宰する雑誌に、若い頃のレヴィ=ストロースが投稿した論文で、サンタクロースからのクリスマスの贈り物を、冬至に訪れる死者たちを代表する者としての子供たちに贈って、死者たちに大人しく死者の世界へ帰ってもらうための古代からの行事の名残だと断じている。本来は王の色である赤い服を着たサンタクロースは、この死者を送る祭りのための、臨時の(偽の)王である。

ヨーロッパにはキリスト教以前から、冬至には死者たちがこの世に還ってきて、生者が死者に贈り物をするという風習があったらしい。そして子供たちは、まだ成人儀礼(イニシシエーション)を受けておらず、死者の世界に近い者たちとして、死者の代りに大人たちから贈り物を受ける権利を有した。

実はこういった冬至の祭りは、古代ローマ時代のサトゥルヌス祭りだけでなく、世界各地の古い祭礼に似たようなものがあるとか。

本書は冒頭で、1951年の12月24日に、フランスのディジョン大聖堂前の広場において、サンタクロースが火あぶりにされたことを伝え、当地のカソリック教会がサンタクロースを異端者として火あぶりの刑に処したことを、そして方々からこの過激な行為に非難の声が上がったことを伝えている。

教会としては、それまで学校で行われてきたクリスマスイブの伝統的な行事が、サンタクロースの登場によって行われなくなったことを憂いて、このような行動に出たらしい。

しかし見ようによっては、教会の判断は正しかったとレヴィ=ストロースはいう。確かにサンタは異教の匂いが濃厚である。ただし、サンタを火あぶりにしたことは、この異教の王を祭りの最後に火あぶりにし、あの世に送り返す古代の祭りを再現することにもなり、教会の意図とは逆に、この異教的祭りの永遠性を証明してしまった、と彼は指摘している。

サンタの贈り物が最初は死者への恐れの現れであったのが、今の様な心温まる家族的行事に変ったのは、昔のような死に対する恐怖心を現代人は忘れることができたからだろう。

ところで、日本では子供への贈り物がクリスマス以外にお正月にもあることを思うと、お正月のお年玉の本来の意味も、元は死者への贈り物だったのかもね。

それに、日本ではお盆の季節に死者が帰ると考えられてきたので、クリスマスプレゼントが本来は死者への贈り物だったと言われても、ぴんとこないかもしれませんね。

そんなこんなで、日本では12月24日は、恋人達が愛を語る日になっていったのかな。これも死に対する生の追及だと、言えなくはありませんが。

中沢新一「ミクロコスモス Ⅰ 夜の知恵」を読んで

中沢新一の最近の文章を集めたエッセイ集「ミクロコスモス」の一巻目です。最初のエッセイはこの本の副題にもなっている「夜の知恵」です。夜の知恵とは、直接的な表現によって表わされうる「表の知恵」に対して、古代よりフクロウに仮託されてきた、円滑なコミュニケーションを敢えて拒み、直接的な表現を避けた神話的な表現によって初めて表されうる「裏の知恵」のこと。古代ギリシャでは夜の知恵の守護者であるフクロウは、表の真理の守護女神アテナの傍らにつねに控えていました。そのフクロウの知恵がこの本のテーマです。

それは、言葉という記号を用いて世界を抽象化し、人の意識の表層で組織化されたその記号の構造を調べる「表の知恵」に対して、レヴィ=ストロースが行った、意識の底にある「無意識」と意識の表層にある記号との関係を調べる「構造主義」により明らかにされた「裏の知恵」を語ることでもあります。

著者は「孤独な構造主義者の夢想」において、レヴィ=ストロースの構造主義は誤解されてきたと言います。彼の学問はしばしば抽象的、形式的だと非難されてきました。しかし、実際のレヴィ=ストロースは抽象的な学問を嫌い、常に「具体性の科学」を目指しており、そして、我々に対して、前もって理性により加工され記号化された「自然」でなく、人の無意識が太古より捉えてきた生の自然に目を向けるよう促しているのだと。

人の無意識が捉えた生の自然は、無意識界にあるため、言葉により直接示すことができません。そのため、神話による表現(夜の知恵)が必要になってきます。レヴィ=ストロースが探し出そうとしたのは、個々にみればバラバラでつじつまも合っていない、世界中に散らばっている多くの神話達の奥底にある、人類共通の無意識界に潜んでいる「原神話」のようなものなのです。

著者は、「神話にはなにかとてつもなく巨大な宇宙が背後に控えていて、一つ一つの神話はそこから生まれてくる水滴のようなもの」ではないかと言います。

ところで、構造主義ではしばしば二項対立の概念を用いますが、それが形式的だという非難のもとになっているようです。しかし、レヴィ=ストロースによれば、二項対立は、人類が進化の過程において生存のために身につけたもので、そもそも脳の視覚(知覚)は二項対立を用いて外界を認識するようにできているのだと。

たぶん、レヴィ=ストロース流の構造主義は、二項対立の対(例えば、昼と夜、表と裏、善と悪、白と黒、上と下など)どうしが、互いに無意識を通じて繋がっている、つまり隠喩(メタファー)が成立すると同時に、対立する二項は互いを排斥しあうように見えて、実は表裏一体になっており、二項の意味がしばしば逆転しうるという神話の独特な構造に注目しているのでしょう。

こうしてみると、神話を読み解くことは「詩」を読み解くことに似ていますね。

レヴィ=ストロースは神話を読み解く際に、神話を生みだした各文化の自然環境へのさまざまな対応に細心の注意を払うよう求めています。そうすることで、人類が本来もっていた精神と身体の一体性をついには再発見するかもしれない、というのがレヴィ=ストロースの孤独な夢想であったと著者は述べています。

レヴィ=ストロースの思想からは、今日流行の「人間と自然が共生」するというような発想は生まれてきません。彼の思想は人間(文化)と自然(野生)を分断し対立させる思考そのものを拒否しているのですから。そうではなくて、人間はその誕生の瞬間から、人間をとり囲む植物や動物たちへの感覚的、知的探求を通じて、それらが人間の食べ物であるだけではなくて、常に審美的、精神的な喜びの源泉であったことを理解して、自然と、そこに生きる生命をより深く愛するようにと、彼は我々に訴えかけているのです。

レヴィ=ストロースはプラトン以後のヨーロッパ世界では、異質な精神の持ち主であったようです。それが彼が孤独に見える理由でしょう。

エッセイ「哲学の後戸」では、プラトン以後のヨーロッパの精神世界において、「文明」と「野蛮」とその「境界」領域を巡って、どのようなドラマがあったかが語られています。印象的だったのは、ヨーロッパ側から野蛮と決めつけられた側からの反動は、「野蛮」をそのまま文明化しようとする新たな運動を呼び起こすこと、その運動はかならず「文明」と「野蛮」の境界領域で生じる、という指摘です。そしてこの運動は決して無教養な人達によるのではなくて、必ず高度な知識のある人達によって作られるのです。

この指摘は近年のイスラム原理主義の台頭や、最近のフランスでの痛ましい事件を思い起こさせます。文明の側には、無意識のうちにも、自分たちの文明の周辺を野蛮と見下す二分法が出来上がっているのだとしたら、問題の解決はどうしたらよいのでしょうか。これは言論の自由などという問題ではなくて、もっと奥深い問題のように思えます。レヴィ=ストロースが生きていたらなんと言うか、聞いてみたいと思いました。

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