梨木香歩「ぐるりのこと」を読んで
梨木香歩さんのエッセイ集「ぐるりのこと」を新潮文庫で読んだ。
これまで梨木さんの名前は映画「西の魔女が死んだ」の原作者ということしか知らなかったのですが。
梨木さんは昭和34年生まれで、私とは同世代。
そのためとは言えないけれど、好みや世間に関する関心の持ち方が似ている気がして、一気に読んでしまった。
このエッセイ集のテーマは最初のエッセイの表題「向こう側とこちら側、そしてどちらでもない場所」に端的に表されていると思うが、要するに人間社会が作り出したボーダー(境界、境界線)についての思索らしい。
あるいは、「境界を行き来する」では鳥と人間の間の(異種間の)境界について述べているので、人間が認識しうるあらゆる境界が思考の対象かもしれない。
一番好きなエッセイは「隠れたい場所」で、植物によって作られたボーダー、生垣に関する考察かな。
二種類のボーダーの比較、シャープでクリアーな有刺鉄線と、幅が有ってあいまいな生垣による境界線の比較。
幅のある曖昧な境界線である生垣の中には、様々な動物や植物が隠れ住んでいた・・・懐かしく、今や時代遅れの象徴。
どっちつかずで境界線の中に隠れているなんて、卑怯者だ、と弾劾されてしまいかねない。
あの9.11以降の戦争を巡って、ウォール界的資本主義と中世的伝統社会の対立、正義と悪の二項対立。
この世界は本当に有刺鉄線によって区切られているものなのだろうか?
私はこのエッセイを読みながら、岩井俊二監督の映画「PiCNiC」を思い出していた。
この映画では、3人の少年少女が精神病院から、塀(ボーダー)の上だけを歩いて、塀の上なら脱走したことにならないという彼らの解釈に基づいて、世界の終末を見に冒険に出発する。
幅のある境界線である「塀の上」を歩くかぎり、彼らは自由でだれにも捕まらないのだ。
終わりから2番目のエッセイ「群れの境界から」では、中心(群れ)への帰属と周辺(境界線上)への逸脱は、実は一人の人間の内面では相反するものではない、と述べられる。
少し引用させてください。
「私は、どうやらノスタスジーというものは、群れの境界で、個としての自分がいつか帰る場所を思って感じるようなものではないか、そしてそれは単なる感傷以上のもの、また、理性とは違った働きで群れの暴走を食い止めるもの、ではないかと思うようになってきた。」
梨木さんはノスタルジックな小説を書きたい、と言う。これは「物語」を書くと言い換えてもいいのだろう。
僕は20代のころ、文化の中心と辺境を巡る物語、言い換えればトリックスターの物語に魅了されたことがあった。
最近、またその頃の関心が蘇ってきた。
トリックスターが何者かを考えることは、なぜ人間は自ら進んで社会の中に垣根(ボーダー)を作るのか、そしてなぜその境界を越境するトリックスターを必要とするのか、を考えることだ。
多くの人々がトリックスターの存在を承認することが、群れの暴走への抑止力になるかもしれない。
梨木さんの志向とは少し異なるが、自分の中でトリックスターの役割について今までとは違う見方が出来そうな気もしてきた。
しかし、トリックスターは有刺鉄線で区切られた世界でもまだ機能するのだろうか・・・
現代のトリックスターについて、これから少しづつ考えていきたいと思います。
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