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2014年6月

2014年6月17日 (火)

ジョン・クラカワー「荒野へ」を読んで

最近TVドラマの台詞で、小泉今日子さんが「若者よ。荒野をめざせ!」というのを聞いて、この本を思い出しました。

 

この本は22年前の米国で、大学を卒業したてのある若者がアラスカの荒野にヒッチハイクで入り、その後遺体で発見された事件のドキュメンタリーであるが、一般の人には決して読み易い本ではないと思う。著者はこの若者を共感を持って理解しようとしているが、読者には共感できない人もいるでしょうね。

 

実際、学業優秀で金銭感覚に優れ、社交的で女の子にもて、一方、矛盾するようだが、女性に対して純潔で、孤独を好み、頑固で人に指図されることを好まず、自分で決めたことは迷わず実行に移した青年は、アラスカで死亡した後、多くのアメリカ人の反発を招いたらしい。

 

しかしこの本を読むと、青年は決して何の準備もなく極地の荒野に分け入った訳ではなく、旅で出来た友人のもとへ帰ってくるつもりで冒険に出発したことが分かる。また彼の冒険は彼自身の欲求から出たもので、しばしば大人の冒険家が陥る見栄や打算とは無関係だったようだ。

 

著者のクラカワーも20代の初めにアラスカの高山の未踏峰ルートに挑み、あわや遭難しかけている。二人とも高圧的な父親へ反発していた。ところが、これも矛盾するようだが、二人とも幼い頃に父親に連れられ大自然に触れ、それが後の冒険行に繋がっているようなのだ。

 

ともかく、主人公の青年は高校卒業時に、バイトで貯めたお金で中古のダットサンを購入して、その愛車で旅に出たのが最初の放浪で、大学卒業直後には就職も進学もせず、愛車のダットサンで最後の2年間の旅に出た。途中、様々な階層の人々に出会い、多くの人に愛された。

 

なぜ最後の旅がアラスカだったのか、明確ではないが、極地の厳しい自然環境に惹かれたのかもしれない。その割にはアラスカ独特の自然環境について無頓着だった。幾つかの不運により彼は命を落とすが、しかし無事帰還できた可能性も十分あったのだ。

 

彼の内なるどんな星々が彼を荒野へ導いたのか、明示はされないが、何か分かる様な気もする。

 

こんな青年とは友人になりたくない気がするが、会ってみたら結構気が合うかもしれない。愛車がダットサンで、愛用のカメラはミノルタだったのだし・・・

2014年6月 4日 (水)

梨木香歩 「渡りの足跡」(新潮文庫) を読む

私が読む、梨木さんの2冊目の著作である。

 

これは梨木さんの鳥の渡りを巡る4年間のフィールドワークの報告であり、境界線を越境していく者たちへの思索に関するエッセイでもある。

 

 

著者はオオワシやオジロワシ等鳥たちの渡りを観察するために、初冬や初春の知床半島を訪れ、さらには鳥たちの渡りのルートを辿り、ロシア沿海州やカムチャッカ半島へ向かう。

 

もっと私たちに身近な鳥たち、たとえばヒヨドリの渡りについても語られている(「囀る」の章)。都会ずれした厚かましい鳥として、梨木さんはヒヨドリを好まなかったらしいが、ヒヨドリもまた渡りをする。北海道では夏鳥であり、秋には津軽海峡を本州側へ群れで渡っていく。

 

ところがヒヨドリの場合は、群れによって渡りの形は様々であり、本州で山と里を往復するものや、ずっと里に留まる留鳥もいる。同じ種なのに移動する群れと移動しない群れができるのは何故か、実はよく解っていないとのこと。

 

「囀る」の章の終りに、季節はずれの時期にメジロやホオジロの声を真似て美しく囀るヒヨドリの逸話が出てくる。筆者は理由を想像するが、答えはでない。

 

 

梨木さんは、渡りをする鳥たちの、個としての行動の可塑性について強い関心を示している。

 

 

「渡りは、一つ一つの個体が目の前に広がる風景と関わりながら自分の進路を切り拓いていく、旅の物語の集合体である」

 

 

続く章では、人工衛星を利用したオオヒシクイやハチクマの渡りの追跡についての話がでてくる。日本の安曇野から南方のジャワ島へ長距離の渡りをするハチクマは、何故か一旦中国大陸へ渡り、揚子江河口域から東南アジアを南下し、マレー半島からジャワへ渡る、という弧を描く長いルートをとる。(同じワシ科のサシバは琉球弧を伝って南下するのに)

 

ルートは毎年変わらないが、このルートを最初に見つけた個体がいるはずだと梨木さんは想像する。

 

「毎年訪れる土地が同じなら、旅の最中、ああ、この風が吹いてきたらもうあそこだ、とか思うだろうか。」

 

 

梨木さんは、注意深いやりかたで、人間界から鳥類界への越境を試みる。動物を人間界に引き込んで擬人化することを戒めながら、人間と動物の間の境界に身を沈めて、そおっと動物の世界をのぞき見ているようだ。

 

人間と動物の間の境界とそれの越境は、前のエッセイ「ぐるりのこと」から継続したテーマだ。

 

 

「渡りの先の大地」の章では、ある特定のオオワシの個体に会いに冬の諏訪湖を訪れる。この個体(グルと名付けられた)は以前、衰弱しているところを保護された。それ以来毎年、ロシアから諏訪湖へ渡ってくる。

 

 

「まるでグルが恩を感じて、というようなニュアンスで報道されたりするが、・・・(オオワシには)本来そういう特別な愛着をもつようなセッティングはないように思われる。が、本当のところは分からない。」

 

 

「案内するもの」の章では、渡りで鳥たちを案内するのが太陽や星の位置であると紹介される。ところが、幼鳥のころに星を見なかった個体は、成長してからいくら星空を見せても自分自身を定位できない。それは自分の内に外部と照合すべき星々をもっていないからだ。

 

「自分を案内するのものが、実は自分の内部にあるもの、と考えると、「外界への旅」だとばかり思っていたことが、実は「内界への旅」の鏡像だったのかもしれない」

 

最後の章で著者はもう一度渡りについて考える。

 

「生物は帰りたい場所へ渡る。・・・本来自分が属しているはずの場所。・・・たとえそこが今生では行ったことのない場所であっても。」

 

 僕も考える。僕自身の内にもきっと、帰る場所を指し示す星々が、方位を定める羅針盤が埋め込まれているはずだ。それはまだ言葉も知らない幼少のころに埋め込まれたのだろう。まだ僕は旅(渡り)の途中である、と。

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