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2014年7月

2014年7月27日 (日)

須賀敦子「ミラノ霧の風景」を読んで

須賀さんのエッセイは二冊目です。

 

60年代のイタリアで出会った友人たちへの回想やミラノ、ペルージャ、ナポリ、ベネチアといった著者が住んだり訪れたりしたイタリア諸都市への著者の心象風景が語られるが、特に印象的だったのは、「コルシア書店の仲間たち」ではあまり触れられなかった友人たちの思い出だ。思い出というより、彼ら彼女らの体温や体臭までもが感じられる回想録といった方がよいかもしれない。

 

最初のエッセイ「チュデルナのミラノ、私のミラノ」では、60年代にはまだ残っていたイタリアの貴族社会について語られるが、その中で著者が数年前熱中したというイタリアのある新聞小説が紹介される。それは「体臭」をもたないで生まれた子供が、母親にうとまれ、周囲の子供たちからも仲間外れにされ苛めを受ける、そこで彼は自分で自分の体臭を、猫のフン、かびたチーズ、腐った魚のはらわたから調合する。この体臭をつけることで彼はやっと周囲に受け入れられ、長じて稀代の香水の名人となる、という粗筋の話だ。

 

「この主人公が自分のために発明した体臭とは、イタリア貴族たちが社会のどこかでひそかに発散しつづけているほのかな匂いと、どこか似かよっているように、私には思えた。もとを洗えばネコの糞であったり、かびたチーズ、腐った魚のはらわたにすぎないものが、たがいにまざりあい、響きあって、私たちのあるかないかの体臭となり、人間同士をかぎりなくなつかしい存在にしている」

 

この本に出てくる登場人物の多くは、著者が彼らのあるかないかの体臭までも限りなく懐かしく思い出せるような、そんな間柄だったような気がする。

 

死別した夫のペッピーノについての回想も印象的だが、特に心に残ったのは、「コルシア書店の仲間たち」にも少しだけ登場する友人のガッティへのオマージュ「ガッティの背中」だった。

 

冒頭でイタリアから東京へ来た友人が、ガッティが死んだと伝えるところから話が始まる。まだ20代の著者が初めて会ったガッティはなんとなく「じじむさい」印象の年齢不詳の男性であった。ガッティの本職はある出版社の編集者だったが、ボランティアでコルシア書店の編集の仕事を手伝っていた。著者はガッティがじじむさい印象とは対照的に、編集の仕事ではよく手入れされた神経質な手をしていることに気がつく。

 

日本に帰ることになったある日、著者はガッティの家を訪ねた。ガッティの仕事が終わるまでソファで新聞を読んでいた彼女は、つい眠ってしまう。

 

「ふと気がつくと、ガッティが仕事机から、ちょっと困ったような、しかしそれよりも深い満足感にあふれたような表情でこっちを見ていた。ごめん、ガッティ、疲れていたものだから。そう謝りながら、私はガッティのあたたかさを身にしみて感じ、それとともに、もうこんな友人は二度とできないだろうと思った。」

 

著者はその後二、三年ごとにイタリアを訪ねるが、ガッティは急激に老けこみ、遂に老人ホームに入る。

 

「ホームの待合室のようなところに、男の看護人に付添われて出てきたガッティは、思いがけなくさっぱりとした顔をしていた。年齢を跳びこえてしまった、それは不思議なあかるさに満ちた顔だった。」

 

「夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにはいなかった。彼のはてしないあかるさに、もはや私をいらだたせないガッティに、私はうちのめされた。」

 

生きていくことは、大事なものを少しずつ失っていくことなのかなあ、と思いつつ、孤独は荒野ではないと、別のところで書いていた著者が、友人の死をどうやって受け止めていったのか考えてしまう。

2014年7月 6日 (日)

須賀敦子著「コルシア書店の仲間たち」を読んで

著者は1929年生まれ。私の母と同年代です。1960年から1971年までミラノに住み、夫のペッピーノと協力して日本文学をイタリア語に翻訳した方だそうです。

 

この本は彼女のミラノ生活での精神的支柱であった、コルシア書店の同士たちと書店に出入りする友人たちの物語です。

 

登場人物は、コルシア書店の創始者で、彼女に影響を与えた詩人でもあるダヴィデ神父、仲間のカミッロ神父、ペッピーノ、ガッティ、ルチアといった面々や、書店に出入りする、元貴族やブルジョアジーの女性たち、ジャーナリスト、アフリカ人の青年など多彩で、彼らに纏わる逸話を読むうちに、戦争がまだ遠い過去ではない1960年代の北イタリアの大都会の社会の雰囲気が、ミラノ名物の霧の中から浮かび上がるように、徐々にこちらに伝わってくる。

 

コルシア書店はキリスト教左派の面々が立ち上げた書店であったが、政治信条や社会階層の異なる人々が集い、著者もその人たちと親しく交わっている。そのことに当事者たちが何の違和感も持っていないようなのが、ちょっと不思議な感じだ。

 

夫のペッピーノを含め著者の仲間の多くはブルーカラーの出だったり農家の出だったりするが、彼らの店のパトロンは大企業の大株主のテレーサ夫人や、侯爵家に連なるフェデリーチ夫人など。著者らも彼女らの家に招待されたりしている。またブルジョアジーのサロンにもしばしば招待されている。

 

「ツィア・テレーサにたいする、書店の仲間や友人たちの態度は、まるで中世の騎士たちが,忠誠を誓った貴婦人にかしずくようなところがあった。(入口のそばの椅子)」

 

ひとところに集う同士でありながら、互いに厳然とした階級意識も存在する。たとえばブルジョアジー出身のルチアと彼女を慕うカミッロの間にも。

 

幾つものエピソードが折り重なって、60年代のミラノの精神的風景が浮かび上がってくるようだ。

 

ところで、60年代は団塊世代の時代だ。1968年にそれは世界的な学生運動となって顕在化する。より左傾化したコルシア書店はついに家主の教会から立ち退きを求められ、著者が情熱を捧げたコルシア書店は事実上終わりを迎え、その少し前に夫のペッピーノと死別した著者は日本へ帰ることになる。

 

戦後にも関わらず、60年代のイタリアには戦前からの古い社会秩序が残っていることに、僕は意外な感じがした。同じ敗戦国でも、イタリアと日本の立場は大きく違っていたのだろうか。また70年代以降はどうなったのだろうか?

 

実は、僕の高校からの友人であるI君は80年代からミラノに住み、ヴァイオリン職人として工房を営んでいた。80年代にはまだミラノでは東洋人は少なく、I君にもミラノの人々は親切だったそうだが、次第に東洋系の住民が増えるにつれて、周囲の東洋人に対する目が厳しくなったように感じられたとか。現在のミラノはまたさらに少し違った社会なのかもしれない。

 

あとがきで著者は古い友人のダヴィデ神父の死について語り、この物語を締めくくる。

 

「人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。

 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かって私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」

 

「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない。(ウンベルト・サバ、須賀訳)」

重松清「せんせい。」 を読んで

六つの短編に六人の先生が出てくる。生徒が語り手だったり、逆の場合もある。学校での、あるいは学校を離れた後での、教師と生徒の関係性の物語り。

 

私が大学院を出てから30年、学校と呼ばれる所から縁が切れて大分時間が経ち、だれか特定の先生のことを思い出すこともあまりない。長い学校生活の中で今でも思い出せるのは、中学1年の時のクラスだ。研究者になりたい、という将来の夢を初めて意識したころ、初恋を経験したころ、まあ思春期の真っただ中ですね。

 

でもそのクラスの担任の先生を具体的に思い出せないのだ。可愛がってもらった(自信をつけてもらった)記憶だけがある。

 

実は僕は両親とも小中の教師、父方の祖父も教師、兄弟も教師、おまけに奥さんの両親も教師だった。自分が教師にならなかったのが不思議なくらいだ。

 

それでだろうか、実際に教師になったことは一度もないのに、僕は初対面の人から先生みたいだと言われたり、会社では大学の先生みたいだとか言われてしまう。教師らしい仕草とか自然に身に付いたりしたのだろうか?教師という職業は自分には向いていないとずっと思っていたけれど。

 

「マティスのビンタ」の中に、もと教師だった老人は、せんせいと呼ばれると、たとえぼけ始めていても、ごく自然に振り向く、というくだりがある。教師というのは単なる職業以上の何からしい。

 

六つの短編の中で僕が特に気に入ったのは、「白髪のニール」です。引退した元高校教師が、ギターを引きながら、教え子に囲まれてニール・ヤングを歌う話だ。無性にニール・ヤングを聴きたくなってCDを注文しちゃいました。

 

Keep on Rolling! ロール(揺れ)し続けなさい!

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