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2014年7月 6日 (日)

重松清「せんせい。」 を読んで

六つの短編に六人の先生が出てくる。生徒が語り手だったり、逆の場合もある。学校での、あるいは学校を離れた後での、教師と生徒の関係性の物語り。

 

私が大学院を出てから30年、学校と呼ばれる所から縁が切れて大分時間が経ち、だれか特定の先生のことを思い出すこともあまりない。長い学校生活の中で今でも思い出せるのは、中学1年の時のクラスだ。研究者になりたい、という将来の夢を初めて意識したころ、初恋を経験したころ、まあ思春期の真っただ中ですね。

 

でもそのクラスの担任の先生を具体的に思い出せないのだ。可愛がってもらった(自信をつけてもらった)記憶だけがある。

 

実は僕は両親とも小中の教師、父方の祖父も教師、兄弟も教師、おまけに奥さんの両親も教師だった。自分が教師にならなかったのが不思議なくらいだ。

 

それでだろうか、実際に教師になったことは一度もないのに、僕は初対面の人から先生みたいだと言われたり、会社では大学の先生みたいだとか言われてしまう。教師らしい仕草とか自然に身に付いたりしたのだろうか?教師という職業は自分には向いていないとずっと思っていたけれど。

 

「マティスのビンタ」の中に、もと教師だった老人は、せんせいと呼ばれると、たとえぼけ始めていても、ごく自然に振り向く、というくだりがある。教師というのは単なる職業以上の何からしい。

 

六つの短編の中で僕が特に気に入ったのは、「白髪のニール」です。引退した元高校教師が、ギターを引きながら、教え子に囲まれてニール・ヤングを歌う話だ。無性にニール・ヤングを聴きたくなってCDを注文しちゃいました。

 

Keep on Rolling! ロール(揺れ)し続けなさい!

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