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2014年9月

2014年9月13日 (土)

エピクロス「説教と手紙」を読んで

古代ギリシャの哲学者の本を楽しみに読む人はあまりいないかも知れませんが・・・岩波文庫のエピクロスは薄いし、読みやすいし、共感できるし、時々考えさせられるし、お勧めです。

 

この本はエピクロスの弟子への手紙3通と、アフォリズムのような短い主要教説と断片から成っていますが、久しぶりに主要教説と断片を読みました。短くて読み易いからですが、エピクロス自身が言っています。

 

「心得ておくべきは、多く語るのも短く語るのも、同じ目的をめざすものだということだ」

 

テーマごとにまとめて見ましょう。

 

1)友情について

 

「全生涯の祝福を得るために知恵が手に入れるものどものうち、友情の所有こそが、わけても最大のものである」

 

「友情はみなそれ自身のゆえに望ましいものである。利益から出発するものではあるが」

 

「友情にせっかちな人も、しりごみする人も、ともに賞むべきではない。むしろ友情のためには危険を犯しさえすべきである」

 

「たえず援助を求めている人が友人なのでもなく、援助と友情を決して結びつけない人が友人なのでもない。なぜなら、前者は親切に対し対価物を売るのであり、後者は未来についてのよい希望を断ち切っているからである」

 

「我々が必要とするのは、友人からの援助そのことではなくて、むしろ援助についての信なのである」

 

友情は知恵を使って手に入れるものだし、勇気がいるし維持するのも結構気を使うが、幸福を得るために最も大事なものだ、というのがエピクロスの結論のようです。彼は男女の愛情についてはあまり語っていませんが、上記の友情を男女の愛情と置き換えてもある程度当てはまりませんか?

 

こんなアドバイスもあります。

「欠乏するものを欲するあまり、現にあるものを台無しにしてはならない。現にあるものも、我々の願い求めているものであることを、考慮せねばならない」

 

中には本当かよ、と言いたくなるものもありますが・・・

「見たり交際したり同棲したりすることを遠ざければ、恋の情熱は解消される」

これが常に正しければストーカーなどいなくなるのですが。

 

2)正義について

 

「正義は、それ自体で存する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互いに加害したり加害されたりしないことに関して結ばれる、一種の契約である」

 

「一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜならそれは、人間の相互的な交渉にさいしての、一種の相互利益だからである。しかし、地域的な特殊性やその他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとは限らなくなる」

 

正義は、神か誰かが一方的に定めた訳ではなく、また自然に存在する訳でもなく、人間同士の相互的な交渉によりできあがる約束事だというのがエピクロスの立場です。だから自分たち仲間内の正義が、地域性その他の理由によって通用しない相手もいるのだ、ということになりますよね。

 

3)生と死について

 

「どんな肉体の苦しみも、うまく軽視することができる。というのは、激しい苦痛を起こすものは、短い間しか続かず、長いあいだ肉体を捉えているものは、弱い苦痛しか与えないからである」

 

「我々の生まれたのはただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが君は、明日の主人でさえないのに、喜ばしいことを後回しにしている。人生は延引きによって空費され、我々はみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでいくのに」

 

このくだりを読むと、ブルーハーツの歌詞を思い出します。

≪70年なら一瞬の夢さ。やりたくねえ事やってる暇はねえ≫(ブルースをけとばせ)

 

「我々は、旅の途中にあるかぎりは、これまでの道よりも、これからの道をよりよいものとするように努めるべきである。そして、旅の終わりに達したときには、いつもと変わらず明朗快活であるべきである」

 

「人はだれも、たったいま生まれたばかりであるかのように、この生から去ってゆく」

 

エピクロスは死後の霊魂の存在を信じませんでしたし、神々が人の運命に直接影響を与えるとも考えませんでした。正義についての考察は、もはやギリシャのポリスが独立性を失った、ヘレニズム時代に生きる文明人としての苦渋が感じられます。彼はアテネの市民でしたが、若い頃、マケドニア軍に対するアテネ市民の反乱と弾圧を経験しました。それ以降、ポリスの自治は有名無実化する訳で、なんだか、グローバリズムの時代に生きる我々の社会環境と似かよっていますよね。

 

本来、古代の理論物理学者でもあったエピクロスも紹介したかったのですが、長くなりすぎましたので別の機会にします。一言だけいえば、彼の「虚空を自律的に運動する原子(アトム)」のアイデアは先人たちの原子論とは異なり、原子の運動に不確実性を導入し、僕らが決定論や運命論に陥ることを避け、自由意思の入る余地を残しています。僕らの知っている量子力学の世界観から見ても大きな違和感はなさそうです。

藤木久志「新版雑兵たちの戦場」を読んで

藤木久志さんの戦国3部作の一冊目です。

 

この本は、「武士」という名誉ある階層の人々を中心とした従来の戦国史ではなく、「侍(さむらい)」という、農民上がりの「名誉のない」雑兵たちから見た、歴史に埋もれていた戦争と戦場の実態を、残された文献から掘り起こしたエポックメイキングな書物です。

 

第一章「戦国の戦場」を読んでみましょう。

 

まず最初に、中世~戦国の世にあっては、「武士」とは大名に領土を安堵された者たちであり、一方「侍」とは、戦争に際して武士の下に集まった、平時は農民であるパートタイムの戦闘員であり、戦闘に勝っても報償はなく、もっぱら戦場での略奪行為により利益を得ていた人々であることが示されます。

 

この時点で、戦国時代を描いたほとんどの歴史書、小説、ドラマは、武士の視点で描かれており、侍たちのことは見ていない、あるいは見ないふりをしていることに気が付きます。

 

甲州武田家の軍書「甲陽軍鑑」には、自国が戦場にならなかった武田信玄の領内は、百姓までみな豊かで、戦争だといえば、嫌がって騒ぎ立てるどころか、みな喜んで(戦争に)出ていく、これもみな信玄のご威光、だと書いてあるそうです。

 

これは、百姓(さむらい)が主戦力であったことを示すと同時に、勝ち戦が百姓の稼ぎになったことを示しています。農民たちは食べるため(生活)のために侍になり戦場に向かった、といのが著者の主張です。

 

さむらい達が戦場で得る稼ぎというのは、戦場になった村で作物、馬や物品を奪うだけではなく、非戦闘員(女、子供)を奴隷として連れさることでした。奴隷は当時の日本では一般的だったようです。

 

また信玄のライバルであった上杉謙信側の記録によれば、常陸小田原城が、上杉謙信に攻められ落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、謙信自身の指示により、春の2月から3月にかけて、人(戦争奴隷)の売買が行われたとのこと。

 

市場というからには、当時は戦争奴隷を売買する商人たちが多数存在し、奴隷の流通ルートがあったことが分かります。

 

武田や上杉に限らず、当時の軍書には、「濫妨狼藉」が戦争の重要な戦術として記されています。それによれば、敵側の農村を焼き払い、田畑を荒らし、人を連れ去ることが主要な戦法で、その後にやっと城攻めが行われます。濫妨狼藉に夢中で戦闘をないがしろにするため、武士が侍たちに濫妨狼藉を一定期間禁じる命令を出すこともあったとか。

 

これを読むと、当時の農民は、大名が戦いに敗れれば、殺されるか奴隷になるかしかなかった訳で、当然農民側もそれに対していろいろな対抗手段を講じたのですが、それは後の章で述べられます。

 

戦国時代の日本は気候が不順で飢饉が続き、食べられなくなった農民が侍となり戦争に行く、その戦争で負けた側は田畑が荒廃し、労働力もなくなり、さらに食べられなくなる、という負のスパイラルに陥っており、農民にとっては地獄のような悲惨な時代が長く続いたということになります。

 

武田信玄や上杉謙信が地方の英雄であったのは、自国の領土での他国兵による濫妨狼藉を防ぎ、逆に他国へ攻め込んで濫妨狼藉の限りを尽くしたからで、攻められる側の民衆から見れば悪魔のような連中だったのかも。

 

こんな悲惨な時代を終りにしたのは、秀吉の全国統一ですが、戦いを終結させるために、秀吉は余剰になった戦闘員たちを朝鮮侵略へ向かわせ、続いて家康は関ヶ原と大坂の戦いで、大名たちの戦闘能力をさらに削いだ、と考えると、侍=食べられない農民によるパートタイム兵士のシステムを廃止することが、徳川の平和を築くための大問題だったことが窺われます。

 

江戸時代初期の各大名による大規模な築城ラッシュ、鉱山開発ラッシュも侍=食べられない農民対策だったと考えられます。

 

今でも米国では、食べられない人たち=兵士というシステムが機能している、という指摘もあります。このシステムの恐ろしい点は、戦争を始めるのは容易になりますが、兵士が再び食べられない人に戻ってしまうため、戦争を終わらせるのが難しいということでしょう。

 

日本史が世界の教訓になる点がここにありそうです。

鶴見良行「ココス島奇譚」を読んで

1826年からの152年間、インド洋に浮かぶ絶海の孤島、ココス島に世にも奇妙な白人王国が存在した。

 

この本は敬愛する社会学者である鶴見良行さんの遺作となる書です。鶴見さんは東南アジアの近代~現代社会の成り立ちと矛盾について現地調査を基に広く問題提起してきた社会学者。

 

この本は、氏が北ボルネオ(マレーシアのサバ州)でパームヤシのプランテーションを調査していた際に、ココスという島の名前が付いた移民の村があることに気がついたのが発端です。氏はココス島が北ボルネオから遠く離れた、インド洋に浮かぶオーストラリア領の島であることを突き止め、島に調査に出向きます。

 

文献を頼りにココス島の歴史を調べると、この島はもとは絶海の無人島で、1826年にイギリス人ヘアが自分の奴隷たちを連れて入植したのが始まりであると知れます。ヘアは東インド会社に関係が深い貿易商人で、かなりいかがわしい人物です。東インド会社からかなりのお金を引き出し、多くの奴隷を買って、ハーレムを作っていたらしい。

 

白人王国が出来るのは、実はこのヘアが呼び寄せたスコットランド人船長のロスの代からで、ロスはヘアをココス島から追い出し、自分の家族とヘアが残した奴隷たちを使って、島に自生していたココヤシからヤシ油を採って欧州へ輸出することで、ロスの一族は独立国のような状態を実に1978年(!)まで維持した。

 

この独立状態が維持できたのは、農業に不向きな、だからそれまでは無人島だったサンゴ礁島では、ヤシ油を輸出し食糧を輸入しなければ食べていけなったからですが、ヤシ油の製造が、男も女も子供までも分業して働き続けなければ破綻するから、つまり農業などで自給するための労働力が出せないからでもあったでしょう。

 

また、島の住民間にはロス一族を頂点にした階級制度があるのですが、大きな貧富の差が出来なかった(富を蓄積する余裕がなかった)ことも一因でしょう。労働は過酷で、ヤシ油の基となるコプラの生産量が増えると、母親が面倒を見れずに乳幼児の死亡率が増える、という残酷な事実もあったようです。

 

最終的にはオーストラリアがロス家から島を買い取り、オーストラリアの領有が確定するとともに、奴隷制もなくなるのですが、その後もマレーシア政府との間には微妙な政治的問題が残っているようなのです。

 

ところで、北ボルネオのマレーシア・サバ州にあったココス村は、ココス島がオーストラリア領になる以前に、独立前のシンガポールを通じて、マレーシアへ住民が強制移住させられた結果でした。サバへ移住した島民たちは、小規模な自作農としてココヤシの実を採りつつ、野菜や家畜を育てて、島では出来なかった自給自足の生活をしているとか。

 

最後に、本書では触れられていない事実を追記しておきます。

 

サバ州は現在、スールー王国軍を名乗る武装勢力が治安部隊と衝突するなど治安が悪化しているようですが、もともと、サバ州のあるボルネオ島東部とフィリピンのミンダナオ島西部は、その間にあるセレベス海のスールー諸島を支配していた、スールー王国の領土でした。航海と貿易を生業とする、海洋民族スールーの民から見れば、セレベス海の真ん中にマレーシアとフィリピン間の国境(ボーダー)があることなど、何の意味もないことでしょう。

 

陸地から海を見る我々日本人や欧米人とは間逆のボーダーの見方があり得ることは忘れないでいたいです。

須賀敦子「トリエステの坂道」を読んで

須賀さんのエッセイの三冊目です。

 

この本の最初のエッセイは、詩人ウンベルト・サバを偲びつつアドリア海に面した北イタリアの街、トリエステの坂道を歩く話で、最後のそれはローマの中世からの曲がりくねった路地を歩きつつ、ローマに住んでいたある年長の作家の思い出を綴っている。

 

しかしその間に挟まる各章は、須賀さんの亡夫、ペッピーノの親族や実家の隣人、幼馴染についての回想録のようになっている。なかでも、ペッピーノの母親、結婚当時既に亡くなっていた義父や義弟のアルドに関する回想が印象的だった。

 

読者は著者の結構波乱に富んだ半生について、著者とともに曲がりくねった小道を歩くようにして、各章を読み続けることになる。

 

生い立ちの定かでない、多分イタリア南部から流れてきたらしい義父の、漂泊者のような人生から、イタリアの北と南の関係が窺われるし、姑の親戚との付き合いから見える貧しい小農の暮らし、義弟アルドの妻の実家を通して見える、イタリア北部の山の暮らしなど、戦後まもなくのイタリアの暮らしが日本のそれとどこか似ていることに驚かされる。

 

ところで著者はイタリアの中でも、アドリア海に面しクロアチア国境に近い、イタリア辺境の街、トリエステに特に心を惹かれるらしい。トリエステは古くはオーストリアに属し、後にベネチアの支配下に入った、複雑な背景をもつ街で、住民は以前からイタリアへの帰属意識を持ちながら、文化的にはウイーンの影響が強いとか。

 

著者はトリエステの坂道で、かつて詩人ウンベルト・サバが経営していた「ふたつの世界の書店」を探そうとする。

 

州全体のものとしては信じられないほど薄い番号簿のトリエステの部分には、古書店も入れて本屋はほんの五、六軒だったから、サバの書店は気ぬけするほどあっけなく見つかった。サバが生きていたころは、たしかふたつの世界の書店という名だったのを、番号簿ではウンベルト・サバ書店と名が変わっていた。味も素っ気もない、観光客向けのその名称は、書店を引きついだ人たちの無神経さを物語っていた。」

 

サバのいうふたつの世界とは、ウイーンとベネチアだろうか。アルプスの向こう側とこちら側・・・著者は二つの世界のどちらかに属することを拒んだサバの生き方に心を惹かれたのだろうか?あるいは著者自身、日本とイタリアの間で、どちらかに属することなく生きることを夢見たのだろうか?

 

実は僕にとって一番印象的だったのは、「ヒヤシンスの記憶」の章で、著者がパリ郊外のマルメゾンの森で、初めて野生の紫のヒヤシンスの花を見つけて、それを摘んでハンカチに包み、パリの下宿に持ち帰るくだりだった。パリに帰るとセーヌの学生街には人と車があふれていた。

 

「一日を郊外で過ごした若者たちが帰ってきたのだ。車という車の、バンパーやらサイド・ミラーにまで、紫のヒヤシンスと黄色いラッパ水仙を、縄のように編んでゆわえつけてあって、どの車もやたらとクラクションを鳴らしていた。」

 

野の花がこんな風に春の祝祭気分を演出する光景は、今の日本では見られないだろうなあ!

 

この紫のヒヤシンスは僕らが日本でよく見かける、ダッチ・ヒャシンスではなくて、もっと古い園芸品種であるローマン・ヒヤシンスによく似た花だろう。僕の家のベランダでも春になると毎年、可憐な青紫の花を見せてくれている。

 

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